■VOL.4「感性至上主義の嵐」

いわゆる「賞」というものに、とんと興味のない私が、それを知ったのは、うちの写真事務所のある下北沢の、とある喫茶店でのことだった。男の子、そして女の子。いま流行のクラシックカメラをテーブルに置いた若い子のグループが 勝ち誇ったように話していた。
「要するに、いつも威張ってるセンセーたちが、とうとうギブ・アップしたということさ」
「今のニッポン何でもかんでも年寄りが偉いと思ったら大間違い」
「時代錯誤の徒弟制度なるものが、そもそもオレたちの世代に通じるわけねーんだ」
「あいつらの従順な弟子を破って、オレたち無党派の代表が当選したことに最大の意義がある」
「閉鎖的だった日本の写真界も、ちょっとは風通しが良くなるのかなー」

それにしても次から次へと飛び出す彼らの過激な発言には驚くばかり…。

そう、若者たちの解放区・下北沢では、いつも次世代の本音が爆発している。この日の話題は、今年の木村伊兵衛賞の受賞者がHIROMIXはじめ3人の若手女流写真家に決まったことについての感想であることを、私は後にカメラ雑誌で知った。
おそらくHIROMIXは天才なのだろう。なぜならば古き伝統に体当たりして、強烈な作風を見せつけ、社会に大きな衝撃を与えたからだ。妙にテクニックに溺れていないのがいい。さらに写真を見る者に全然こびていないのもいい。 本来、芸術家は周りの評価など気にすることなく、おのれの才能を存分に発揮するものだ。私は、よく知らないが、もし優秀な作品に対して贈られる賞ならば、もっと早く受賞すべきだったとさえ思う。

「経験のない者は、数多くの可能性を見い出す。しかし熟練した者は、わずかの可能性しか見い出さない」というのが禅の教えにあったような気がする。特にHIROMIXら時代の旗手たちは小手先よりも、自分の心を大切にする 「感性至上主義」だから、本来、真似しようにも、できないものなのだ。天才アラーキーのような写真が簡単に撮れそうで、なかなか撮れないのと同じである。
私の考えるプロカメラマンの条件というのは、作品として写真を発表し、それでメシを食う者のことを指す。いくら芸術性の高い作品を撮っても、それが売れなければどうしようもない。 優秀な写真作家であっても、必ずしもプロの写真家であるとは言いきれない。そして一生が保証されているような写真賞がないのは悲しい現実だ。

私は下北沢に集う若者たちほどにラジカルな考えは持ち合わせていない。いくら新進の女流が脚光を浴びたからといって、一気に新陳代謝が進むとも思えない。しかし写真界は腐敗・堕落した政治や経済の世界よりは夢と希望にあふれていると期待する。 新しい時代が、新しい世代を求めている。もはや全力疾走できなくなった御仁は、やはり引き際を大切にすべきなのだろうか。私も、みずから晩年を汚すようなことはしまいと胸に誓った。

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